ちょっとしたことが実践出来るかでひとは判断される。
例えばドアの開閉。
最近のドアは手動で開けるが閉めるのはダンパーの働きで自動で閉まるドアが多い。
私は半自動ドアと呼んでいる。
しかしダンパーの調子が悪いドアにけっこう出会ってしまう。かなりな勢いで閉まるドアが多い。
ドアによっては避けていないとケガをしてしまうくらいの勢いで閉まるドアもある。
こんなドアは管理者がメンテナンスするべきではあるが、いかんせん放ったらかしの管理者が多くて日常茶飯事。
いちいち目くじらを立てることではないし誰かに報告する気もない。
こんなドアでも大抵の利用者は気にせずに開けて中に入っていく。
そのため毎回ドアは勢いよく『バタン!!』と閉まっている。私が見ている限りほとんど全員!!95%くらいのひとは勢いよく閉まるのを気にしていない。
勢いよく閉まるドアを危険と感じていないのだろうか?ドアの閉まる音をうるさいと感じていないのだろうか?
でもこの間、ひとりだけ優しく閉めたかたがいた。男性である。ちょっとビックリしてしまった。
その男性はドアにそっと手を添えて閉めていた。自動的に閉めるのではなくて勢いを手を添えることで緩めて『パタンッ』と小さな音で閉める。静かにゆっくり閉めるようにしていた。
「あぁ同じ気持ちの人だ仲間がいたんだ…」思わず涙が出そうになった。
あまりに皆がドアを気にしていなかったので「私だけ??」だといつも思っていた。
ほんとドアに関して孤立した気持ちになっていた。
でも同じ気持ちを持った仲間がいたことに触れられた。飛び跳ねるくらいに嬉しかった。
顔とか年格好とか確認しておけばよかった。突然のことだったので男性ということ以外は記憶に残っていない。
ほんの些細なことではあるが、行いは誰かが見ているものである。
小さな善行も同じである。誰も見ていないようでもきっと誰かが見ていてくれる。
私の日常も誰かが見ていてくれるだろうか?もし見られていたら何か恥ずかしいような、こそばいような感じである。
良いと思う行いは続けていこう。正しいと思うことは続けよう。
誰かのためではない自分自身のためにである。例え自己満足でも良いではないか。
自分の行いが大勢の人たちと反対の行いでも良いではないか。自分が正しいと思えるなら、そのことを真っ直ぐに実行するべきである。
きっと誰かが、分かる誰かが、仲間が見ていてくれることを信じて!
逆もそうである。
これくらい、誰もみていない、と小さな悪行をしたらきっと誰かがみている。
皆がやっているからと同じように悪行をおこなうのは最悪、今日からやめよう。
自分のおこないは必ず回り回って最後には自分自身に返ってくるものだ。